山野・史跡探訪

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS 深山隧道周辺の探索

<<   作成日時 : 2009/02/23 00:20   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 4

年月日:2009年2月22日(日)

本日は午前中は快晴の予感だが、金曜日に降った湿った雪が残っていて締まりもなさそうなので山歩きする気が起きなかった。既に狩猟期間が過ぎて安心して野山を動き回れる季節であるが、渓流釣り解禁まではまだ間がある。早春の山歩きや釣りの参考とすべく久しぶりに深山湖にでかけた。

江戸時代には大川を遡り大萱峠を越えて会津に抜ける道があった。大正時代には大川流域で欅や針葉樹の択伐が行われていた。大川林道や県境尾根を歩いてみて深山湖以遠の道筋はなんとなく納得できるのだが、当時の板室と深山湖の間の交通の便については全く情報が無い。板室から奥は急峻な大峡谷であり、沢底を歩いて行くことは有り得ない。ということは現在の深山湖に至る県道は昔の道筋に沿っていると考えてよいであろう。木ノ俣地蔵に俘囚(大和に帰順した蝦夷)であった安倍貞任に関する伝説があるくらいだから、木ノ俣地蔵尊を通って現在の深山隧道の奥側に出る破線路が大昔の道筋であった可能性が高い。

この近辺には旧い道筋の痕跡がいくつかあってなかなか興味深い。興味の対象の一つは矢沢を渡る橋のすぐ下流側に残る旧い橋脚跡、もう一つは深山隧道ができる以前の道跡である。昨年、木ノ俣川沿いの軌道跡のことを調べていて、大正時代に既に大川及び矢沢の森林伐採が行われていたことを知った。管流を用いず土橇で運材していたとのことであるから、しっかりした道が建設されたはずである。ならばどこかに痕跡が残っているはずだが、板室から深山湖の間の区間でそれらしい道跡を目にしていない。旧い橋脚跡がそのヒントとなるかもしれぬと思い、散策気分で出かけてみた。

暖冬で積雪量が少なく、路面が凍結していても深山湖までは簡単に行ける。

画像


大倉山を間近に見れて満足し、矢沢に戻って橋脚跡の実地検分。

旧道が矢沢を渡った後の行き先に興味があったのだが、どうやら現在の県道に合流若しくは交差していたと考えられる。橋脚の幅は決して広くはないし、続く道跡の窪みの幅も狭いので、近年にダンプカーがガンガン走った道であるとは思われない。少なくとも橋脚の上数mの高さに架かっていたはずの橋の残骸が全く無いので、木製の橋であったのかもしれない。

矢沢底にある橋脚跡
画像


左岸側橋脚の鉄筋
画像


現在の深山湖に至る車道が建設されたのは深山ダムが着工された1968年(昭和43年)頃のことで、おそらくは同時に矢沢の取水堰に至る林道も整備されたはず。それ以前にあった道の目的としては年代順に@江戸時代〜明治初期の街道、A大正から昭和初期における大川と矢沢流域で伐採した木材の搬出、B昭和三十年代における矢沢奥で採掘した銅鉱の搬出等が挙げられる、橋脚の造りから判断してAに関連する可能性がある。

さて、期待したような道跡が残っていなかったので、沼原線の鉄塔巡視路を利用して867.3m三角点峰に登ってみた。鉄塔巡視路は整備し直したばかりでとても歩き易い。但し、場所が場所だけにバランス崩して落ちたら確実に死が待ち受けるような危険箇所も存在する。人間では登れないような急勾配の斜面では緩んだ雪がコロコロと転がり落ちてくる。

鉄塔周りは樹木が刈り払われて眺め良し。深山隧道ができる以前の道筋が確認できた。あそこも以前から興味があった場所だ。後で行ってみよう。

深山隧道方面の眺め
画像


鉄塔から山頂に至る尾根にはミズナラやブナの大木が存在する。山の南西斜面は県道から山頂までスギが植林されている。

ミズナラ
画像


三角点は雪の下。広々とした場所が無いので最近は測量していないのでないか。梢越しではあるが山頂から周囲の地形を十分に確認でき、昔の道跡を推測するには申し分ない。急峻な大川渓谷の沢底に街道があった可能性はなく、現在の車道もしくはその近くにあったと考えられる。巡視路を戻り、県道付近の植林の中の道を辿っていくとコンクリート吹き付け斜面に出た。ここから矢沢右岸側斜面に雪が積もった白い筋(廃道)を確認。工事用に一時的に用いられたものなのか、それとも昔の伐採用の道なのか、検分は次回に持ち越し。

この後、帰る途中で深山隧道に寄り、広場から788mピークをグルリと巻く旧道を歩いてみた。深山隧道は昭和四十四年の竣工(深山ダム建設のためにつくられたようだ。)であるから、この道が建設されたのはかなり旧い時代ということになろう。

画像


落石注意の標識も年季が入っている。

画像


旧道のガードレールが少し変わった形をしていることは以前から気づいていた。

画像


近くで見るとコンクリート柱を繋いでいるものの形状が変だ。

画像


廃線のレールを利用したようだ。どこで用いられていたものであろうか。

画像


レールの端部に円い連結用の穴が空いているものがあったので間違いなさそう。

旧道は部分的に崩落した土砂で埋まりガレた斜面になってしまっている。地形図では道路建設するような勾配にはとても見えない場所である。反面、眺めは良好。初めて矢沢と大川(那珂川)の合流点から深山ダムまでの谷の様子を見た。

左の山が登った867.3m三角点峰
画像


有名な矢沢の滝はここからも見えない。今年の春は渓流釣りついでに矢沢の滝を眺めてみたい。

2009/02/28 がり2さんから教えて頂いた明治時代の地形図と現在の地形図の比較追加

画像




設定テーマ

関連テーマ 一覧

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
ナイス

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
YOSHIさん

木の俣地蔵は子育て地蔵尊として会津地方からも多くの参詣人を集めたそうですね。会津方面から木の俣地蔵へのアクセスは栗生沢沿いの大萱峠道か大峠越え。会津西街道の代替ルートには厳しいですね。「明42 那須嶽」にリンクしときます。 
がり2
URL
2009/02/26 01:17
がり2さん 地図のリンクありがとうございます。 現地を見て、昔の道はほぼ現在の車道に沿っていたであろうと推測していたのですが、これで少なくとも明治後期以降の道筋ははっきりしました。例の橋脚の建設年代は大正から昭和初期のものと考えていましたが、もう少し遡るのかもしれません。 会津中街道は沼原経由でしたが、明治後期には三斗小屋に至る道が既に木ノ俣地蔵尊経由が主となっていますね。三斗小屋から下って麦飯坂に入る場所の道標にたしか「右 やま」と彫られています。江戸時代にも湯川沿いに道があって大川沿いの道に抜けることは可能だったと思われます。会津方面から木の俣地蔵にアクセスする人は白湯山詣でや湯治と組み合わせて周遊していたのでしょうね。
Yoshi
2009/02/26 03:39
Yoshiさん
あり?クリックでジャンプできませんでしたね。右クリック「対象をファイルに保存」で見てください。この古地図によると、大川の渡渉点は現在の発電所あたりの湖底でしょうか。渇水時に気をつけてみてみます。
ダム西岸施設付近から上がってきて、現在のようにつづら折で矢沢側に降りずに867.3mピークを西に巻いて矢沢対岸に渡っていますね。ここが例の橋脚部分でしょうか。
木の俣地蔵から東に谷を下りて塩沢温泉に行く道があったに違いないと思うのですが。
がり2
URL
2009/02/27 00:29
がり2さん 私のPCからは一発で地図にジャンプできます。問題ありません。
明治時代は航空撮影ができませんから、限られた測量情報を人間の目と推測で補完して地形図を作製していたはずです。よって、主要なポイント(三角点等)以外はかなりデタラメです。例えば、明治時代の地図では現在の矢沢の滝付近で矢沢を渡り一気に867.3mピークの西側に登っていきます。今回歩いた巡視路はこの道と交差することになりますが、その場所はどんな動物でも登攀できない急勾配です。橋脚跡は現在の道路のすぐ傍にあります(車で走行中に確認できます。)。スギ林の中に残る道が旧道かと思って辿ってみたのですが、現在の車道建設で削られた法面のコンクリート吹き付けで途切れていたので確信はありません。ただ、ほぼ現在の道筋に沿っていたことは確かなようです(新旧地図の比較をブログ記事に付け足しました。)。
木の俣地蔵から東に谷を下りて塩沢温泉に行く道は752mポイントの南側辺りに存在していた可能性がありますね。
Yoshi
2009/02/28 18:03

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
深山隧道周辺の探索 山野・史跡探訪/BIGLOBEウェブリブログ